かつて日本が産業用機械の多くを欧米からの輸入に頼っていた時代、日阪製作所独自の技術で、日本初となる染色機、プレート式熱交換器、ボールバルブの開発に成功しました。「流体の熱と圧力の制御技術」を持った世界的専門メーカーとして、「高度な製造技術」をベースに数々の「日本初」や「世界初」「世界最大」などのNo.1を生み出してまいりました。
これからも、日阪製作所はその開発スピリットを継承し、高度なものづくりにチャレンジしてまいります。
日阪製作所の源は1942年5月、石川清によって創業された三石工業に遡る。戦時中に工作機械の修理・更生の需要を見込んで設立され、大阪市東淀川区に工場を置いた。創業1年後に軍需省の命令で設立された新会社に集約され短命に終わる三石工業だが、石川が仕事を通じて知り合った三浦春信、難波静男の2人によって引き継がれる。1946年11月、三浦・難波は当時貴重品とされた「ステンレス鋼」に着目し、ステンレスパイプの製造を開始。1947年4月には櫻製作所として再出発した。
三浦・難波の狙いが的中し、ステンレスパイプの加工メーカーと広告を出すと翌日には注文が来るという状況で多忙を極めていた1948年に家城福一が取締役として入社。業績も順調に伸び、人材・設備・製品も整いメーカーとしての基盤づくりが着々と進行していった。1951年の社長三浦の独立を機に、新経営陣(社長家城、専務難波、常務横山)が選出され、日本の「日」に大阪の「阪」をとり、大阪のように活力のある会社になることを祈念して、日阪製作所に改称される。
日本の日とステンレスのSを組み合わせたデザイン。丸い形は成熟を意味し、日阪でつくる製品も、日阪社員の豊かな人間性を持ってそれぞれが成熟していくという願いが込められている。
1954年にプレート式熱交換器(以後PHEと表記)の開発に着手し、2年の開発期間を経て、1956年に「たこ焼きプレート」の愛称で親しまれるEX-2型の1号機を納入、日阪のPHEの歴史がスタートした。
ウインスの木槽にステンレスの薄板を内張りした布染機を皮切りに、1958年には日阪独自のアイディアを盛り込んだ高温高圧糸染染色機・乾燥機を開発し、『第1回国際見本市』(大阪)へ出展。染色機械の日阪として市場で認知されるきっかけとなる。
また、ステンレス加工技術を駆使し、日本初のステンレス製ボールバルブ(二方弁・三方弁)を開発したことで、“特殊弁の日阪”として認知されるようになる。
経営刷新を目的として高橋倉吉を新社長として迎え、「熱交機部」「化工機部」「第2工場部(後に特品部)」「染色機部」の4事業部制が1959年にスタート。東淀川区の遊休工場を買収し、堀上工場(旧淀川工場)の立ち上げを行うも、受注増による生産能力不足解消のため、1961年には鴻池工場の建設が開始され翌年稼働を始めた。
1960年の『日本産業見本市』(モスクワ)に参加した日阪に、旧ソ連から染色機の引き合いが出され、1年間の交渉の末に大型染色機・乾燥機を含む7.4億円の大口案件を成約した(当時の年間売上は11億円)。
1965年には企業倒産が戦後最高を記録、日阪も1964年上期に赤字を計上した。この環境の中で難波静男が社長に就任し、1966年を起点とする『第1次3年計画』が立てられ、「熱と染め」の世界的メーカーを目指すためには「高度な技術指向」「財務内容の充実」「労使関係の健全化」「公正な人事」「高給与水準」が必要不可欠とされ、諸計画が打ち出された。この時点で日阪の進むべき方向が確定したと言える。また、この時期に事業部の再編、労使関係の見直し、協力会社(日阪会)との関係強化、社訓や経営原則の制定等が実施され、日阪の会社としての形が整った。
「誠心(まごころ)」は、「嘘や駆け引きのない製品を社会に送り出すことにより、社会から信頼される会社になろう。それによって社員も切磋琢磨して成長していこう。」という企業として、社員としての基本理念を示している。
景気回復の波に乗って、染色機械・PHE・ボールバルブの3事業が市場に定着していくこととなる。1969年からの『第2次3年計画』では、PHE製造の基盤となる2万トンプレス機が導入され、1971年には株式上場(大阪証券取引所市場第二部)を達成。
第2次オイルショックに見舞われた『第4次3年計画』だが、新製品と省エネ対策を最優先として推進する民間設備投資に支えられ、最終年度には計画の158.3%超の売上高146.6億円を記録した。鴻池改造計画として立案された『K-81計画』の目玉とも言える、世界最大の4万トンプレス機(世界では2台目)が1983年に稼働し、“世界の日阪(熱交換器)”への第一歩を踏み出した。1985年、東京証券取引所市場第二部に上場、1987年に市場第一部(東京・大阪・名古屋)に指定され、念願の東証第一部上場を果たした。
時代の変化や兆候を読み取り、1987年には「21世紀の日阪のあるべき姿」を想定した長期経営構想『F21』への取り組みがスタート。以降6年間は日阪の歴史の中でも特筆すべき成長の期間であった。新型機「サーキュラーRZ」の繊維加工業界への投入と海外市場への拡販、チーズ(糸染め)無人化工場の提案と市場への実績化、スプレー式レトルト調理殺菌機の開発による食品・医薬市場への展開、食品殺菌用PHE「FX」や空調用の「SXシリーズ」の投入、バルブやアクチュエータのコンパクト化等、総力を上げて取り組んだ結果、1992年には245億円超の売上を達成した。
サーキュラーラピッド、医薬用高温高圧滅菌装置日本経済の大きな分岐点と言われているバブル崩壊の一連の出来事以降、染色仕上機部(現:プロセスエンジニアリング事業本部、以下PEと表記)は日本の繊維産業衰退とともに売上の低迷が続く。そのような中でも、世界最大のPHE「UX-100」の開発に成功した熱交機部(現:熱交換器事業本部)は、1999年に『K-99計画(鴻池改造計画)』を推進、新棟と4千トンプレスラインを完成させた。食化機部(現:PE)も高温短時間調理殺菌装置(RIC)の開発によって受注が堅調に推移し、売上増大に寄与した。
2000年3月期を底とする2004年までの5年間は、厳しい事業運営を余儀なくされた。企業の存続をかけて『R-3年計画』-『R-02』計画を策定し、林正一社長を中心とする新体制のもと、事業の再構築を推進することとなる。『R-02』の3年間を次の飛躍のための準備期間とし、目玉として2004年に『鴻池統合計画(マスタープラン)』が発表された。
2004年4月6日付、5月13日付、5月31日付新聞記事東南アジアでのPHEの定着を目的に、従来の代理店営業から、自社による市場拡販と現地での製造・組立に挑戦した。04年HISAKAWORKS S.E.A.SDN. BHD.を設立、07年HISAKA WORKS(THAILAND) CO., LTD.、09年HISAKAWORKS SINGAPORE PTE. LTD.、11年インドネシアに駐在員事務所(現:PT. HISAKA WORKS INDONESIA)設立と、順次東南アジアへの拠点づくりを進めた。また、中国市場への定着及び価格競争力強化を目的として、06年に日阪(上海)商貿有限公司(現:日阪(中国)机械科技有限公司、上海分公司)、09年に日阪(常熟)机械科技有限公司(現:日阪(中国)机械科技有限公司)を設立した。さらに、中東へのプラント輸出が増大する中、ユーザー顧客からのメンテナンスサービスへの要求が高まり、12年に合弁会社HISAKA MIDDLE EAST CO., LTD.を設立。翌年の13年には更なる受注拡大を目指すための販売拠点として韓国にHISAKA KOREA CO., LTD.を設立。
設立当時のS.E.A.、日阪(中国)、サウジアラビアのメンテナンス工場『R-05』計画を『第二の創業期』として位置づけ、「生き残りから勝ち残りへ」を標榜し事業拡大を目指した。幸いにして2005年度から国内市場が回復基調となり、『R-05』の3年間は右肩上がりで受注記録を更新、最終年度の2008年には346.5億円を記録し、6年間で2倍の成長を遂げた。2008年3月には、共通する製造技術の集約でより高い生産性を達成し、また、共通する技術開発力の結集で新製品開発に拍車をかけることを目的とした鴻池事業所への全社集結が、総工費187億8,000万円の大事業となった4年間にわたるマスタープランによって完成された。
幅広い領域での製品提供を可能にし、かつ新製品開発への寄与が期待されるとして、09年にマイクロゼロ、16年に旭工業、19年に小松川化工機を子会社化(※マイクロゼロと旭工業は23年10月に統合し、株式会社日阪プロダクツが発足)。また、大阪と東京の2箇所による販売拠点で全国をカバーしてきた営業部隊は、中部・東海地方の営業強化と知名度向上を目的とし、14年に名古屋支店を、翌年の15年には九州地域での営業強化とサービス向上を目的とし、九州及び北九州支店を開設した。
自然環境にやさしい「再生可能エネルギー」の普及促進に向け、14年に鴻池事業所の屋上へ太陽光パネル2,324枚を設置、発電した電気の売電事業(FIT)を開始した(最大発電容量500kW、年間発電量66万kWh、年間CO₂削減量計画値226ton)。また、22年に設置した太陽光発電設備は、発電した電気をすべて事業所内で消費することで、さらなる温室効果ガスの排出抑制に寄与している(発電量251.8kW、年間CO₂削減量計画値127ton)。
日阪製作所の将来のあるべき姿と100周年(2042年)へのロードマップを策定するため、16年に「長期ビジョン策定プロジェクト」が立ち上げられ、100周年ビジョンを「流体の熱と圧力の制御技術を結集し、エネルギー・水・食の明日(あした)を、お客様と共に支える企業になる」とし、売上目標をグループ売上高1,000億円に定めた。また、新事業や新製品の探求と事業化の推進を目的として、18年に「未来事業推進部」を設置した。
20年に社員参加型で経営理念の再構築に取り組む「理念体系構築プロジェクト」を発足させ、21年に社訓・社是・五原則・行動指針の4つで構成される全社員共通の価値基準、『HISAKA MIND』を構築した。さらに、「より多くの人が日阪を知る活動」を略した“ヒサシル活動”が始動し、創業以来初めてとなるコーポレートメッセージ『いけ、技術に想いをのせて』を策定した。
食品及び医薬品等の生産設備やエンジニアリングの需要拡大に応えるべく、19年に奈良県生駒市に事業用地を取得し、生駒事業所の建設を開始した。
24年に鴻池事業所から本事業所へプロセスエンジニアリング事業を移転し、最新鋭の建物や設備の導入による生産能力の増強及び高効率生産体制の構築を図っている。
2042年の日阪100周年に向けて、すぐには想像することができない未来を着実に見据えることで、現状に縛られない発想を促し、「流体の熱と圧力の制御技術を結集し、エネルギー・水・食の明日をお客様とともに支える企業」という日阪製作所のあるべき姿を体現するために、日阪の総合力と未来志向力を持って加速していきたい。